2026年7月雑記

※チャッピーに校正してもらっています

時の速さの正体

ここ最近、やたらと時間の流れが速く感じる。

やりたいことにのめり込み、脳にもそれなりの刺激がある生活を送っているはずなのに、それにしても体感時間が速すぎる。まるで、時計の分針が秒針のような速度で進んでいるかのようだ。

以前、私は「記憶は感情ごとに分けて記録されているのではないか」という話を書いたことがある。

その考え方を時間の感覚にも当てはめてみると、時間の流れの速さを決めているのは、単位時間あたりに時計を見た回数、あるいは過ぎた時間を振り返った回数なのではないかと思った。

人は時計を見た瞬間、作業に没頭している状態から、時間を振り返るモードへと切り替わる。

そして、

「前に時計を見てから、どれくらい時間が経っただろう」

と確認することで、時間の流れが速かったのか、遅かったのかを感じているのではないだろうか。

たとえば、退屈な授業が長く感じるのは、何度も時計を確認するからだ。

「まだ5分しか経っていない」
「さっき見たばかりなのに、まだこんな時間か」

そうやって何度も時間を区切って認識するため、体感としては長く感じられる。

反対に、何かに夢中になっているときは時計をほとんど見ない。ふと気づいたときには、前回時間を確認してから何時間も経っている。

その大きな時間の飛躍を目の当たりにして、「あっという間だった」と感じるのではないだろうか。

多くの人が口をそろえて「年々、時間が過ぎるのが速くなった」と言うのも、単に年齢の問題だけではないのかもしれない。

現代人は常に次の予定、次の目標、次の情報へと意識を向けている。先ばかりを見て、過ぎた時間を振り返る機会が減ったことで、時間が細かく区切られず、ひとまとまりのまま過ぎ去ってしまう。

もしかすると、時間の流れが速くなったのではなく、私たちが時間を観測する回数が減っただけなのではないか。

腕時計を身につける文化が廃れ、必要なときだけスマートフォンで時刻を確認するようになったことも、案外関係していたりするのだろうか。

叔父の死

ここ二日間は、叔父の通夜と葬儀だった。

叔父は数年前にうつ病を患い、それ以来、病院への入退院を繰り返していた。そして、姉である私の母の命日の前日、病院内で自ら命を絶った。

叔父は、両親の介護にひどく苦しんだ人だった。

私の母も病気を抱えながら、何度も叔父のもとへ通い、支えていた。

愛すべき親を憎まなければならない苦しみ。

当時の私には、それが理解できていなかった。

祖父母のいる母屋を離れ、離れに寝泊まりする叔父を見て、私は「じいちゃん、ばあちゃんがかわいそう」とつぶやいたことがある。

あの言葉は、叔父の耳に届いてしまっただろうか。

数年後、私もその苦しみを身をもって知ることになった。

祖父が亡くなった翌年に祖母が亡くなり、その二年後には母も亡くなった。

その頃から、叔父は次第に人を避けるようになった。盆や正月に訪ねても、会えないことが多くなっていった。

介護の最中には、どうしても怒りや憎しみが湧いてしまうことがある。

けれど、強い怒りや憎しみは、すべてが終わり、熱が冷めたとき、同じ強さの後悔や自責の念へと姿を変える。

「あのとき、もっと優しくできたのではないか」

「あんなことを思うべきではなかった」

もうやり直せないと分かっているからこそ、その思いは自分の中に残り続ける。

介護の本当の苦しみは、介護をしている最中だけにあるのではないのかもしれない。

すべてが終わったあと、誰もいなくなった場所で、自分自身と向き合わなければならなくなる。

その瞬間から始まる苦しみも、きっとあるのだと思う。

思い出

葬儀の帰り、兄を自宅まで送った。

鹿児島の市街地を車で走るのは数年ぶりだった。慣れない道に緊張しながら運転していたけれど、窓の外の風景を見るたびに、懐かしい気持ちが込み上げてきた。

友人とあそこへ行ったな、とか。

兄に連れられて、ゴーゴーカレーを食べたな、とか。

街のあちこちに、忘れていた記憶が残っていた。

当時の私は親の介護を抱えながら、初めて経験することに緊張してばかりいた。毎日を楽しむ余裕など、ほとんどなかったように思う。

それでも今になって振り返ると、あの頃の風景をとても懐かしく感じる。

人生の終わりだけですべてを決めるのなら、多くの人の人生に「不幸」という烙印が押されてしまうだろう。

祖父も、祖母も、父も、母も、叔父も、みんな苦しい最期を迎えた。

けれど、それだけが彼らの人生のすべてではない。

盆や正月になると家族が集まり、みんなで笑って過ごした子供時代があった。

確かに、幸せな場面はあった。

たとえ最後が苦しいものだったとしても、振り返ったときに幸せな場面があったことへ感謝できるのなら、その人生は幸せだったと言えるのかもしれない。

人の人生は短い。

だからこそ、その短い人生の中に、笑い合えた時間があったことを忘れずにいたい。

その時間が確かに存在したことに、感謝しようと思う。

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